昔は暴走族、今は・・・
2010/06/01
こんにちわ、お久しぶりの円太です。

最近、ホリエモンが、週間誌の連載コラムの中で、郵政問題に触れて、こんなことを書いていましたよ。
やや乱暴に要約すると・・・

  1. 手書きの手紙の良さもわかるが、そもそも手書きでしかこめられない思いなどないのではないか。
  2. 電子メールでも気持ちやニュアンスは、手書きの手紙同様、十分に伝わるし、とにかく便利だ。現行の郵便システムでは、本人不在の際、郵便物の受け取りに手間や時間がかかるなど、不便この上ない。
  3. よって、葉書や手紙をあんな値段で全国どこにでも届けられるシステムを国が続けていくこと自体に疑問を感じる。

筆者がホリエモンだということで、ぼくにも一種のバイアスがかかってしまうことを避けられなかったのですが、上記の1.については、なかなかに刺激的なことをいう若者だと。
「週刊誌に書くくらいだから、きっとブログにも・・・」
・・・ありました、題して「郵便はもう必要ないかも」ですぞ。お時間のある方は、左のリンクからご覧下さいませ。

で、郵政問題についてよりもですね、ぼくが、またまた刺激的だ・・・と思ったのは次の一節。ちょいと引用させてもらいます。

「そろそろ、紙の郵便は役割を終えてきたと思えないだろうか?よくノスタルジックに郵便を語る際に、手書き文字の温かみとか言われることがあるが、むしろ字が汚かったり逆に達筆すぎて読めなかったりとコミュニケーション本来の機能がむしろ失われていると言っても過言ではないだろう。以前はそれしかなかったから、一生懸命読むスキルを上げていっていたのだろうが、現代にそれは必要なことではないと思う。」

賛成とか反対とか、そういうことではなくてですね・・・幸か不幸か、ぼくには子供がいないのですが、もしも、もしもですよ、自分の息子がこういうことを言い出したとしたら、どうするか?・・・夜中に一人でお酒を飲みながら、ぼんやりと、ちょびっとしょんぼりめに、考え込んでしまいそうな・・・そんな勢いです。

しかし、これって、ぼくが普段、仕事にしている、デジタルだの、これからはi-padだの、ということと、本質的には関係があるような気もするんです。

「このブログは、コンピュータを使って書いています」
・・・この文章、違和感を感じます。それは、ぼくが四十路も半ばで、ライブドアみたいな会社を興す才覚もない、酔っ払うと涙もろくなる、単なる厄介なオッサンだからかも知れません(鬱・・・祝:新常用漢字参入)。

「ボールペンで書く」や「メモに書く」に比べて、「ワープロで書く」や「携帯で書く」、これ、使うには使うんですが、かなりの飛躍=無理があると思います。

あ、こんなことを言って、手書きを推奨するような、エラそうなことを書こうというのではないのです。ぼくだって、手書きの機会は「激減」しており、ほぼ日常のやり取りは、メールで済ませてしまうのも事実です。
ただですねぇ、「選択可能な主体的コミュニケーションはスマートだ」みたいなことも、認めますけど、「手書きの文字は、時代遅れで不必要な情報だ」という男にはなりたくないなぁ・・・と。

「汚かったり、達筆すぎて、読めない」こともある肉筆の文字と、キーボードから打ち込まれ、結果表示されるフォントの文字の、どちらが偉いということでもないでしょう。
フォント文字は、誰が、いつ、どこで打っても、全く同じ記号として存在するのだから、確かに可読性は高いし、便利なこと、この上ない(あ、シンセサイザーが出てきた時に、今後のミュージシャンは、オリジナリティーが出しづらくなる、という議論を、ふと思い出しました)。

でもね、うちのスタッフが書いてくれた「この件、早急に対応して下さい!」などという、脅迫めいた、POST ITの伝言メモの文字にすら、やっぱり「風情」ってもんを感じる・・・いや、たとえそれが、ぼくの一方的な「妄想」でも、そんな風に思いたいんですね。
手書きだけが持つ独自性、本人ですら二度と再現不可能な、思いの現実化、痕跡に、それこそ思い違いでも良いから、何かを感じられる人でありたい(・・・あはは、結局、単なる寂しがり屋か!)

そもそも文字には、美しい、とか、好きだ、という志向性はあっても、唯一正規で正しい文字などという形はないでしょう。教科書に出てくる文字が「唯一正しい」わけではない。絵のようでいて、絵ではなく、かなり形を崩しても、意味がわかる。

言葉という、不思議な道具を使わないと生きていけない、その意味で全くスマートではない人間が、その言葉を目に見えるように紡ぎ出した文字。言葉と同様、時代の流れとともに、形を変え続ける文字は、実に魅力に富んだ、人間の鑑だと思います。
人間の鑑であり、個人の鑑でもあるわけで、ぼくの子供の頃の文字、いたいけで素直だった、あの日が忍ばれます。学生時代に捨て忘れたラブレターを発見し、そこに書かれた文字を見てしまった時、すぐに首を吊ろうと思ったものです。

ぼくはこれからも、手書きの文字にも、フォントの文字にも、色々な妄想をかき立てていきたいですな。読めなくたって、しょうがない。
んでもって、デジタルで表現されざるを得ないであろう、今後のコンテンツのお仕事でも、たくさんの妄想をかきたててもらえるような独自性、再現不可能性への挑戦をしていきたいと思っとります、エッヘン。

以上、喧嘩上等、現役時代は「暴走族」、今やバリバリの「妄想族」の円太でした。
哀羅武勇!夜露死苦!


(株)フェザンレーヴ さんの投稿 投稿時: