第33回日本アカデミー賞、最優秀作品賞は「沈まぬ太陽」が受賞した。
関係者でも何でもないぼくが、あんなに胸が熱くなったのは、こんな理由があるからだ。
プロデューサー、井口喜一。
知り合って、6年が経つ。誰に紹介しても「そういう仕事をしている人には見えない」、「偉ぶるところが全くない」、「やさしくて、ほがらかな人」。
井口さんと知り合った頃、ぼくは勝手に「塾長」と呼んだ。
例えば、青森県出身のフォトジャーナリスト、沢田教一(ベトナム戦争でピューリッツァー賞受賞。カンボジア戦線を取材中に狙撃。享年、34歳)を描いた、テレビドラマ作品「輝ける瞬間」。これが本当に2時間ドラマか、という渾身の力作について、映像化の意図、奥さんへの取材、シナリオハンティングからシナリオ脱稿、製作現場でのエピソード・・・若松監督、大沢たかおさんの話。
例えば、主人公が生活安全課の警官達で、市民に防犯などを啓蒙するため、着ぐるみ劇を催す劇団員でもある彼らが、事件に巻き込まれていくという「寸劇刑事(すんげきデカ)~危機一発!踊るヌイグルミ劇団」。ぬいぐるみを着る警官という発想の妙、サスペンスとコメディ、制作予算の話。
例えば「キサラギ」、例えば「子ぎつねヘレン」、例えば「椿山課長の七日間」・・・
ある時は洒落た料理屋で、ある時は小汚い居酒屋で、ある時は朝まで、毎回テーマなど決めていなかったが、ほぼ定期的に、当時ぼくが働いていた会社の若い者が、何となく集まり、井口塾長の講義に聴き惚れた。それは本当に嬉しく楽しいひとときだっただけでなく、今のぼくの仕事においても重要な「教訓」となっている。
いくつか仕事の話もするようになった頃、ぼくは勝手に「兄貴」と呼ぶようになった。
兄貴はいつも忙しく、責任もどんどん重く、大きくなっていった。けれど、その日の「飲み」が飛んだ時、一軒目は跳ねたが飲み足りない時など、気さくに声をかけてもらった。ぼくはホイホイとついていった。
仕事のことだけでなく、私事も相談するようになった。
2年程前、兄貴が若松監督と「沈まぬ太陽」をやることになったと聞いた。
ぼくなりに、それは相当大変なことだと感じた。山崎先生の話は有名だし、JALだって相当抵抗するだろう。どう考えても上映時間は2時間では収まらないだろう。その分、撮影はしんどく、回収しなければならないお金も大きくなってくる。
以降、兄貴と飲む時は、必ずこの映画の話題になった。というより、二人で会っていても、長電話ばかりで、落ち着いて会話が成立しない時すらあった。
具体的なことをここで書くのは憚るが、JALは数度、警告文を出すなど、強硬な抵抗を続ける中、兄貴の会社は製作委員会から外れた。井口・若松組は、政治的な力学の中で、思いもかけない苦労が続くことになる。
上映時間は3時間を優に越えることとなり、興業を危ぶむ声もあった。それはそうだ。1時間半の映画を2回回せば、収入は2倍になる。
そんな騒動を端で見ていて「これは映画の中身どころの話ではない」と、本当にそう思っていた。
やがて兄貴から「クランクアップ」というタイトルのメールが来た。御巣鷹山の現場の写真が、一枚だけ貼り付けられていた。
兄貴は、やりきったんだな、と思った。兄貴からそんなメールが来たことなどなかったから、本当に感慨無量なんだろうなと思った。
日本アカデミー賞授賞式の当日。そんなこんなで、若松監督は壇上に上がれるだろうが、兄貴は壇上には上がれないということを、頭の中では理解していた。
頭の中では理解していたが、もし受賞ということになったら、兄貴は、それをどこで、何を思いながら目にするのだろうかと思った。
鳩山首相が入場、最優秀作品賞の授与だ。ぼくは受賞を確信し、兄貴に送るメールを、後は送信するところまで打ち終えていた。
・・・決まった、すぐに送信した。
すぐに兄貴から電話があった。何のことはない、あれは録画で、もう3次会の店にいるという。
馬鹿な話だが、二人とも、涙まじりで、短い話をした。こういう馬鹿な話は何度でも歓迎だけれど、これからそんなに経験できるものでもないと、ちょっと思った。
兄貴、ありがとうございました。お疲れ様でした、そしておめでとうございました。
(株)フェザンレーヴ さんの投稿 投稿時: 18:48
